地域とともに歩み、
伝統を紡いでいく。
正法寺の開基明観は(俗名:永坂鐡三郎)といい、天台宗の流れを汲み、居を構えていました。貞永元年(1232)、親鸞聖人が関東から帰洛の途中に三河にしばらくとどまり、柳堂(妙源寺、国・重要文化財)で教えを説かれたと言われています。
そこへ開基明観も足を運び、教えを受け直ちに師弟となり、形見に十字尊号(現存)を賜りました。そして大岡に一宇を建立し慈覚大師自作の阿弥陀如来像と十字名号を堂内に安置し、称名を怠ることはありませんでした。
第9世明賢は岡崎市下青野の慈光寺教寿の弟で、第8世定観の養子となります。三河一向一揆の翌年、明賢は石川安芸守清兼の妻で家康の伯母である妙春尼(あるいは妙西尼)と親戚関係にあったので、妙春尼を通じて取り成しをして、その労をねぎらわれ、慶長4年(1599)徳川家康より正法寺の寺領として四石八斗を賜りました。
三河禁国中、明賢は長島の一向一揆、石山合戦に兄教寿とともに参戦し、石山合戦では顕如上人、教如上人に隨従し、その際兄教寿は討死し、明賢は難を切り抜け上人をお守りしました。褒美として顕如上人より御自画像を裏書に授与の趣を御染筆にて下されました。(現存せず)この石山合戦の際、明賢が常に懐にしのばせていたのが「血(ち)染(ぞ)めの御文」です(市指定文化財)。
第11世明順の代、万治2年(1659)山崎(安城市山崎町)より本郷(現在地:岡崎市東本郷町)に移りました。
山崎に移転する前は、矢作川の東堤防沿い、中之郷(岡崎市中之郷町)の西端で上青野に隣接する地点に正法寺がありましたが、元亀・天正年間(1570~1592)に織田信長の三河進攻に際し、兵火にあい焼失してから矢作川の西、山崎の地に移りました。
そこへ開基明観も足を運び、教えを受け直ちに師弟となり、形見に十字尊号(現存)を賜りました。そして大岡に一宇を建立し慈覚大師自作の阿弥陀如来像と十字名号を堂内に安置し、称名を怠ることはありませんでした。
第9世明賢は岡崎市下青野の慈光寺教寿の弟で、第8世定観の養子となります。三河一向一揆の翌年、明賢は石川安芸守清兼の妻で家康の伯母である妙春尼(あるいは妙西尼)と親戚関係にあったので、妙春尼を通じて取り成しをして、その労をねぎらわれ、慶長4年(1599)徳川家康より正法寺の寺領として四石八斗を賜りました。
三河禁国中、明賢は長島の一向一揆、石山合戦に兄教寿とともに参戦し、石山合戦では顕如上人、教如上人に隨従し、その際兄教寿は討死し、明賢は難を切り抜け上人をお守りしました。褒美として顕如上人より御自画像を裏書に授与の趣を御染筆にて下されました。(現存せず)この石山合戦の際、明賢が常に懐にしのばせていたのが「血(ち)染(ぞ)めの御文」です(市指定文化財)。
第11世明順の代、万治2年(1659)山崎(安城市山崎町)より本郷(現在地:岡崎市東本郷町)に移りました。
山崎に移転する前は、矢作川の東堤防沿い、中之郷(岡崎市中之郷町)の西端で上青野に隣接する地点に正法寺がありましたが、元亀・天正年間(1570~1592)に織田信長の三河進攻に際し、兵火にあい焼失してから矢作川の西、山崎の地に移りました。
Point.01
創立と移転
当山は1232年に創立され、その後1659年に現在の本郷に移転しました。移転から約360年の間、地域に根ざした活動に取り組んでいます。
Point.02
浄土真宗への改宗
正法寺の開基である明観さんはもともと天台宗の僧侶でしたが、親鸞聖人の教えを受け、浄土真宗に改宗しました。これにより、正法寺が浄土真宗の教えを受け継いでいくことになりました。
Point.03
三河一向一揆との関わり
正法寺は三河五箇寺の一つであり、三河一向一揆に参加し、徳川家康と戦いました。その後、一揆の収束を取り成したとされ、歴史的に重要な役割を果たしたと伝えられています。